はじめまして。

吉原祐樹(よしはらゆうき)です。

今でこそ、色々な仕事をしていますが、僕の社会人生活は整骨院の先生から始まりました。

このページでは、産まれてから整骨院の先生になるまでの過程を書いてみました。少し長いですが、私がどんな人間なのか?知っていただければ嬉しいです。

私が整体師になった理由

代表の吉原 祐樹(よしはら ゆうき)です。

私は長崎県の対馬で生まれました。

対馬ってご存知ですか?

対馬(つしま)は、九州と韓国の間の対馬海峡に浮かぶ島で、「国境の島」と呼ばれています。

韓国まで直線距離にして49キロしかありません。

なぜこのようなところで生まれたかというと、父が自衛官だったからなんです。

航空自衛隊の監視隊です。

レーダーで日本を見守っている人と言うとわかりやすいかもしれませんね。

3月30日の早生まれなため、子供のころは同学年の子どもたちよりも1年近く遅く生まれています。

背も小さく中学1年入学時には身長は139センチしかありませんでした。

背の順番に並べば必ず前から一番目か二番目です。

童顔だったこともあって、いつも「かわいいね」と言われていました。

自分では「かっこいい」と言われたかったのでちょっと不満でしたが(笑)

4人兄弟の長男です。長男である私に父は厳しかったですね。よく殴られましたよ。

自衛官のイメージどおり曲がったことが嫌いな人でした。

子供のころ鬼ごっこをしていたとき、体力のない子に何度もタッチを繰り返して鬼にさせているところを見つかったことがあります。

そのときは30発くらい殴られましたね。

「弱いものいじめはしてはいけない」と怒られました。

そんな父でしたがあまり自衛隊っぽくありません。

ギターが好きでしたし4WDの車を買って家族を乗せてドライブにも連れて行ってくれました。

好奇心旺盛な人です。

父が日勤のときは家族全員が揃うまで食事をしない。そのときはテレビもつけない。正座で食べる。そんな感じでした。

ちょっと昭和の家みたいな感じでしょうか。

とにかく家族を大切にする人です。

「兄弟仲良く」が口癖の人。

次男や三男が思春期のころ、運動会で友達に家族を紹介することを渋ると「家族を紹介できないような人は家族じゃない」と叱りつけるくらいでした。

父自身は6人兄弟でしたが複雑な家庭で育ち、家族との折り合いがよくなかったそうです。

それだけに自分の家族の絆を大切にしたいのではないかなと解釈しています。

正義感と家族愛への目覚め

私は父の影響をかなり受けて育ちました。

祖父を早くに亡くし、祖母に楽をさせてあげようと自衛隊に入隊した父は、高卒の中ではこれ以上ないと言われるほどのキャリアコースを歩んだ人です。

私に家族の大切さを教えてくれた父ですね。

転校を繰り返していた幼少期の思い出

私は小学生の頃から元気いっぱいでした。

両親が寝たあとに、こっそり隠れて夜中までテレビゲームをして、ほとんど寝ないで学校には誰よりも早く行きました。

成績も良かったのですが、成績表には必ず「落ち着きがない」と書かれていたくらいです。

そして父の仕事柄、転勤が多いのです。

対馬で生まれましたが、その後、北海道の西側に位置する当別町に引っ越すことになりました。

好奇心旺盛なので、転校はイヤではなかったです。

引っ越した先ではどんな人に出会え、どんな出来事が起こるかワクワクの方が勝るんです。

そしてこの頃から人の気持ちを汲み取るのが得意でした。

名前と顔をすぐに覚えるのが特技です。

今でも小学校や中学校の同級生と交流が続いているのが自慢ですね。

さらに小学3年生のころから剣道をやっていました。

父から「武道をやりなさい」と言われていたので。

全国大会にも出るような強豪だったので、厳しかったですね。

でも礼儀作法を学ぶいいきっかけだったと思います。

小学校6年生のとき、今度は鹿児島の沖永良部島に引っ越しました。

ここでの生活もとても楽しかったです。

先生にもかわいがられ、みなとすぐに仲良くなりました。

このころから私は見知らぬ人にも挨拶をするようになっていました。

すれ違う人みんなに「こんにちは!」と頭を下げます。

するととてもかわいがってくれました。

中学2年生のころにこの島を引っ越すときはさすがにさみしかったです。

フェリーで最後は島を離れますが、そのときはクラスの友達がみな集まってくれて、テープカットがありました。

涙でぐしょぐしょになったのをよく覚えています。

北は北海道から南は鹿児島まで、転々としていた幼少期は大切な思い出です。

疲れがたまった体をほぐす幸せ

航空自衛隊の仕事をしている父は、夜勤も多く座りっぱなしの仕事です。

なので腰痛や肩こりがひどい人でした。

母は専業主婦ですが、ひとりで4人の面倒を見ているので大変です。

そんなふたりを見ていると少しでも楽になってもらおうと子供の頃はよくマッサージをしてあげました。

両親がとてもうれしそうにしている姿は今でも忘れません。

この頃には将来まさか整骨院を開業することになるとは思ってもいません。

ですが、あのときの両親の笑顔が、今のお客さまの笑顔とかぶっているのは間違いないと思います。

勉強ができても成績が上がらない悲劇・・・・

要領の良かった私ですが、中学生のころに壁にぶつかりました。

テストでは高得点をとるのですが、成績表は「2」ということもありました。

このころは相対評価というもので、テストの点だけでは成績が決まりません。

生活態度など先生に気に入られないと、なかなか良い成績をつけてもらえないのです。

先生との折り合いがよくなかった私はあまり良い成績をつけてもらえませんでした。

中学3年生のとき、私は進学先として父と同じように自衛隊の道を目指しました。

航空自衛隊の競争倍率は30~50倍という狭き門です。

ところが残念ながら不合格・・・。

更に追い打ちをかけるように地元の公立学校も不合格となってしまいました。

ここからが私の人生が、大きく変化する初めの一歩だったように思います。

高校を辞めて自衛隊へ

最終的に入学できたのは東福岡高校という私立高校です。

サッカー・ラグビー部を始め、全国大会に出場するレベルの部活動が盛んな学校でした。

更に進学コースでは勉強にもかなり力を入れる学校で、有名大学に進学する人も多い文武両道の学校です。

私は空手部に入部して、日々汗を流していました。

みな塾に通っていましたが、私は家計のこともあるので塾に通いませんでした。

それでも1000人中30位くらいまで勉強はがんばりましたね。

楽しい高校生活でしたが、4人兄弟の長男として、家計の負担を減らしたいという気持ちがありました。

学費が大きく生活費を圧迫しているのではないか。いつもそればかりを考えていました。

1年間高校に通いましたが、私は自衛隊にやはり入ろう。

そうこころに決めたのです。

競争率30倍以上の、神奈川県横須賀市にある給料の出る自衛隊の高校「少年工科学校」という高校に入学することができました。

この頃から親に仕送りをすることもできるようになりました。

しかしここでの生活は過酷なものです。

根性論がうずまく世界で、朝は6時にラッパで起こされます

真冬でも上半身は裸体。毎日、ランニングに筋トレ。乾布摩擦は亀の子タワシ。

血が出るまで身体をこすりました。

昭和初期の話ではありませんよ。

日本の自衛隊は世界一の厳しさと言われています。

入学した時には自衛官という身分の学校なので、どんな状況なのか想像に難くないと思います。

このころに培った経験は今の財産です。

どんなことにもくじけない精神をここで養いました。

自分の子供が年頃になったら、この学校をすすめようと思うくらいです(もちろん無理強いはしませんが)。

ここでラグビーに出会いました。

3年間ラグビー漬けの毎日です。

3年生のころは主将と肩を並べるポジションに任命されました。

と同時に、この頃は腰痛とも戦っていました。

いろんな病院に行ったけれど、湿布や痛み止めなど対処療法しかしてくれず、

痛みは一時的に消えるけれども、すぐまた元に戻るのです。

原因もわからないと言われます。

また、筋肉量が落ちて体温が下がり、体調が悪くなった時にパーソナルトレーニングをつけました。

ところがそのトレーナーは痛みやケガなどに対しての知識が薄く、腰痛を感じながらトレーニングをしていました。

その痛みからトレーニングを止めた経験もあります。

今の私の知識があれば、痛みを取り再発も防げたのに・・・と思いますね。

待っていた虚無感

自衛隊の学校で3年間を過ごしリーダー的な立場だった私は、先生たちや同級生たちからも将来はエリートコースにのる男だという目で見られていました。

そのころ、自分が自分でないような気がしてならなくなってしまいました。

というのも子供の頃から人が大好きで、誰かのためにという気持ちがあるとすごくやる気が出ました。

ところが日本では自衛隊が実際に現場に出て何かをする場面というのがほとんどありません。

震災などのときは大活躍されましたが、私がこの学校にいるころに起こったことでもなく、

訓練だけが続くような毎日です。

あと40年間、自衛隊の職務をするのかと思うと気持ちが重くなってしまいました。

海外派遣を志願したかったのですが、母からそれは止めて欲しいと言われました。

そんなさなか、一冊の本に出会いました。

「13歳のハローワーク」という本です。

この中に、「柔道整復師」という仕事のことが書かれていました。

何か人のためになるような仕事がしたいと思っていた私は、最初は医者の道も考えました。

九州大学医学部の道を目指そうかと予備校に行ってみたものの自衛隊の勉強しかしてこなかったので、全くついていけません。

医療の世界に飛び込むにはムリがありました。

でも「柔道整復師」という仕事は自分にもできる。

そうビビッときました。

柔道整復師とは、国家資格です。

骨・関節・筋・腱・靭帯に発生する骨折・脱臼・打撲・捻挫・挫傷などの損傷に対し、

手術をしない整復・固定を行う施術を行う人のことを言います。

この仕事なら患者さんによろこんでもらえる。

あの子供のころに見た両親の「ありがとう」の笑顔を思い出しました。

整体師に向かって!人生を取り戻す!

高校を卒業後、柔道整復師の資格をとる専門学校の学費を稼ぐためにアルバイトを始めました。

ビアホールにアルバイトとして入社、500名が入ることのできる店でホールスタッフとして勤務しました。

ラグビーと自衛隊で鍛えた筋肉でジョッキを右手に7個、左手に6個、計13個のジョッキを持つことができましたよ。

また、元横綱若乃花の経営する、ちゃんこダイニング若で深夜営業のスタッフの仕事も経験しています。

ここでは中洲で働く女性たちに向けてのサービスを徹底的に学びましたね。

2006年4月に福岡柔道整復専門学校の夜間部に入学することになります。

警察OBが理事長を務める厳しい学校です。

でも自衛隊で鍛えられていた私には問題ないレベルです。

夜間部の学費を払い続けるため、昼間はヤマト運輸で配達のアルバイトをしました。

この仕事を3年間、年中無休週6日勤務で柔道整復師の国家試験の前日まで働きました。

夢と希望に満ち溢れ、どんな仕事も全く苦になりませんでしたね。

整体師の修行

2009年、資格をとった私は福岡県内に6店舗ある某整骨院グループに入社しました。

そこでは上司と私のみです。

受付もなしのたった二人の院に配属されました。

朝7時から夜12時まで毎日必死に働きました。

マッサージとストレッチをひたすらやります。

このときの上司がすごかったです。

同じことを黙々とやります。

600円しかもらえない診療でも全力です。

その仕事に向かう姿勢は今の私の診療の姿勢のベースとなりました。

お客さまもどんどん増えて、月500万円の売上を上げるくらいになりました。

保険診療のみ、二人でこの売り上げはおそらく日本で他に例はないと思います。

このころに多くの患者さんを診続けたことで、自分の診療経験は他の先生を圧倒するボリュームになりました。

同時に妻と結婚し、長男が生まれました。

父から言われた「3年間は働け!」の言葉どおり、そんな過酷な中でもやり抜きました。

その後、新天地で院長をする話をいただき転職することになりました。

新天地の医院で待っていたもの

マンションの一室のその医院では1日で40~50人の施術を行いました。

おそらく通常の整復師の2倍以上の人数です。

同時に他の整骨院の新規開業の起ち上げも行っていたため、朝5時に起床し、片道1時間45分かけて通いました。

90日間仕事をして1日休むという生活です。

そんな仕事を1年続けました。

このときに短時間で治療するための整形外科的な検査や瞬時の判断力が身につきました。

患者さんを見た瞬間、骨格がどう歪んでいるか、筋肉の長さはどうなのか、瞬時にわかるようにもなりました。

ただ、毎日毎日たくさんの患者さんを治療するために常に前傾姿勢のため、私は常に腰をたたいてました。

腰の筋肉が緊張することによる腰痛に悩まされていたのです。

お客さまの痛みが出たときに行う対処療法しかできないことに疑問を感じはじめました。

痛みを取ることはできても、再発や予防をするための治療が会社の方針によりできないのです。

整骨院としては何度も通院してくれた方が経営も安定します。

でも治らない治療を続けていては自分の身体は壊すし、患者も本当の治療を知らないまま、再発を繰り返す。

いまやっていることはみんなにとって悪いことなんじゃないかと思い始めていました。

受け入れてくれた妻への思い

自衛隊で鍛えていた私は精神的にも肉体的にも普通の人に比べればタフだと自負しています。

ところがこの時期は流石にきつかったです。

過労のため毎日鼻血が止まらなくなり、妻も心配していました。

このころの私は毎日、自分の医院を持つ夢を妻に語るようになっていました。

痛みが出ない体をつくるところまで行う理想の医院を作りたいと思ったのです。

おそらく同じ話しを何百回もしたと思います。

でも妻は毎回うんうんと聞いてくれました。

今でも思い出すと涙が出そうになります。

精神的にきつかった自分を支えてくれたのは妻や子どもたちです。

独立開業するとき、妻は「やってみなさいよ。応援するから」と背中を押してくれました。

そして2013年。27歳のころに開業しました。

私は患者の施術だけすればいいとは思っていません。接客やサービスを突き詰め、心から「また通いたい」と思ってもらえるような医院にしたいと思っています。

医院に行くのがおっくうになってしまっては、患部が悪化したときしか来てくださらなくなるからです。

悪化する前に来て頂かないと、回復も遅くなります。

気軽に通える医院を目指そう。

そう思っているからです。

私はこれまで延べ3万人の患者を診ています。

お客さまが暑がっているか寒がっているか、患者さんが1センチ髪を切ればそれもすぐにわかります。

ご本人のお誕生日もお子さんのお誕生日も覚えています。

そのくらい患者のことを知り尽くして初めて施術家と呼べるのではないでしょうか。

おかげさまで、年収1億円以上ある競艇選手やプロゴルファー、元日本代表のサッカー選手なども来ていただいてます。

働き盛りの女性が集まるちょっと変わった医院

うちの医院に集まる患者さんは20代~50代の働き盛りの女性が多いです。

整骨院と言うと、お年寄りのサロンみたいになっているイメージをお持ちかもしれませんね。

そんな雰囲気はまったくありません。若くて元気のいいスタッフが多いせいか、女性に人気があります。

私の施術にはコダワリがあります。

それは「痛みをとるだけ」の施術はしないということ。

痛みが出ない体づくりまで指導する施術ノウハウを持っています。

マッサージ師や鍼灸師・理学療法士は、痛みをとるためにマッサージや鍼を打って施術をします。

これでは痛みの根本を取り除くことにつながらないのです。

骨の歪みを本来の正しい位置に整え、その上でマッサージや鍼などを使って痛みをとる。

そんなプロセスが必要です。

そうしないとマッサージや鍼を打ったときだけ痛みがひくけれど、その後また痛みが出るの繰り返しになるんです。

そしてそれだけでもダメなんです。

正しい位置に整った骨を、そのまま維持できる体づくりが必要です。

ではどのようにすればいいのかですが、

ちょっとしたエクササイズを施術のカリキュラムに入れています。

トレーニングをすることによって可動域( 身体の各関節が、痛みを発生することなく普通に運動することができる範囲(角度)のことを示します)を安定させます。

動きのクセを直し、筋力をつけて骨がピシッと安定するようにするのです。

そうすることで、いつまでも痛みなく元気に年齢を重ねていけるのです。

私は体の仕組みを猛勉強しました。

しかしそれ以上に、3万人以上の患者の体を触り続けてきた実績があります。

そこで、

痛み改善⇒理想の骨格ラインの獲得⇒エクササイズによる安定

という3つのプロセスが必要だということがわかったのです。

骨格ラインを整えたときに起こること

骨格ラインを整えると、女性は勝手にキレイになることがわかってきました。

骨格を整えるというのは、インナーマッスルと呼ばれる、体の奥の方にある筋肉を鍛えて骨を安定させることをいいます。

なのでエクササイズをしても、ムキムキにはなりません。

お尻がきゅっと上がったり、足のラインがカモシカのようなラインになったり、姿勢がよくなったり・・・ということになってきます。

すると女性はどんどんキレイになります。

ちなみにですが、競艇選手はこのインナーマッスルのトレーニングをしています。

ムキムキにすると体重が重くなり、レースに不利になってしまうからです。

私は研ぎ澄まされた体を持つ競艇選手を何人も施術してきました。

そのようなわけで普通の整体師には絶対に負けない自信があります。

誰にも言えない悩みを持っている驚愕の事実

働き盛りの女性を施術していると、多くの悩みを打ち明けられます。

「腰が痛い」「肩がこる」「O脚を治したい」「骨盤のズレを治してウエストを細くしたい」という理由で当院にいらっしゃるのですが、

その奥にはもっと深い悩みを抱えている人が多いです。

少しご紹介します。

次のような悩みです。

「生理痛がひどい、今までにセックスの経験があまりないので自信をつけたい」

「セックスに対して良くないイメージ、彼氏がずっといない」

「現在39歳結婚したい!子供欲しい」

「産後に性欲にずれがある」

「性欲が強すぎるから、どうにかしたい」

など。

夜の営みに関する悩みです。

みなさんどこに相談していいのかわからないのでしょう。

本気で悩んでいらっしゃいました。

すべての答えは「骨盤」にあった。

当院では産後の女性も多くいらっしゃいます。

平日の午前中はほとんどと言ってもいいくらいです。

週1~2回患者さんは施術やトレーニングにやってくるので、

悩みを打ち明けてくれました。

そこでなんとか患者さんがもつ悩み解決の答えを

探そうと猛勉強をしました。

するとわかったのです。

前述した悩み解決は「骨盤」に答えがありました。

骨盤をしっかりと整え、キープすれば多くの悩みに

効果的があることがわかったのです。

そこで当院では300万円するアメリカ製の矯正マシンを導入しました。

もちろん矯正だけするわけではありません。

「骨盤ピラティス」というトレーニングをします。

ピラティスとは、フィットネスクラブでやるようなきついトレーニングではありません。

ゆったりと呼吸をしながらインナーマッスルを鍛え、骨盤の歪みをとりながら、

無理なく筋肉を鍛えることができるエクササイズです。

私の開発した骨盤矯正プログラムは、週に2回。2ヶ月で最大限の効果を発揮します。

私自身が3児の父親です。子供を産んだ母親の気持ちも妻の近くにずっといたのでよくわかります。

骨盤を通じて社会を変えます!

私の理想とする社会は、家族みなが健康でいつも笑顔でいられる社会です。

子供のころ、転勤族で色んなところに行くと、必ず最初いじめみたいなものにあいました。

それでも家が自衛隊の社宅で狭く家族6人で寝ていたことなどから身近に家族(仲間)を感じられたからこそ、

いじめみたいなものがあっても明るく気にならなかったのかもしれません。

心のより処になったのは家族の存在です。

家に帰れば父も母も弟も妹もみんな笑って出迎えてくれる。

そんな居場所があったことが救いでした。

その家族の笑顔の中心となる女性の痛みや悩みを解決することが私の使命と考えます。

その笑顔から生まれる幸せをひろげ、日本を元気にしたいのです。

骨盤は、家で例えるならば基礎のようなものです。

しっかり整えればどんな風雨にさらされてもゆるぎません。

そんな骨盤で悩む方をなくしたいのです。

これが私が整体師になった理由です。

お読みいただきありがとうございました。